[当Blogより] ※ディベートの教材・情報をお求めの方へ

●ネットで順番に学べば、ディベートができるようになるサイト 『 ディベートのStairs(階段) 』にて
 テキスト公開開始!pencil必要な方は是非御覧くださいhappy01 (最新は5段目:論題の種類

学校の授業等にディベートを導入しようとお考えの方々には、教材を提供します。
 【 
ディベートカリキュラム&教材 『“総学”パック』提供ページ 】

 特に【“総学パック”向け・授業用ディベート論題一覧】は、初めてディベートに取り組まれる方々のお役にたつかと思っております。

●ディベートに関するご質問等は、こちらのBlogか、『Debateフィードバック掲示板』をご利用下さいhappy01

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2016.04.30

ご案内:東北ディベー交流大会

 今年も、5月4日(水・祝)13時~5日(木・祝)12時で、『第15回東北ディベート交流大会』を開催します!    詳細・お申し込みは【 こちら 】を御覧ください。    今年は地...

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2016.02.20

「みずからまなぶことを知らない」学び手を育ててしまう学校…

 まずは率直に、下記の文を読んでみてください。

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 ある芸ごとの名人の言だということだが、次のようなことばを聞いたことがある。「芸ごとのコツというものは、師匠から教えてもらうものではない。ぬすむものだ」というのである。おしえる側よりも習う側に、それだけの積極的意欲がなくては、なにごとも上達するものではない、という意味であろう。
 芸ごとと学問とでは、事情の違うところもあるが、まなぶ側の積極的意欲が根本だという点では、まったくおまじだと、わたしはかんがえている。うけ身では学問はできない。学問は自分がするものであって、だれかにおしえてもらうものではない。
 そういうことを考えると、いまの学校という制度は、学問や芸ごとをまなぶには、かならずしも適当な施設とは言いにくい。今日、学校においては、先生が教えすぎるのである。親切に、あまりにも親切に、なんでもかんでも、おしえてしまうのである。そこで学生は、おしえてもらうことになれて、みずからまなぶことをしらない、ということになってしまう。
 もし学校において、教師はできるだけおしえまいとし、学生はなんとかして教師から知恵をうばいとってやろうとつとめる、そういうきびしい対立と抗争の関係が成立するならば、学校というものの教育的効果は、いまの何層倍かにものぼるのではないかと、わたしは想像している。いあの学校のやりかたが、まったく無意味だともおもわないが、学問や芸術などの創造的な活動力をやしなうには、たしかにあまりに【でき】のいい制度とはおもわれない。
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 昨今、アクティブラーニング等に取り組んでいる先生方にとっては、まったくその通りで何を今更…と思われるかもしれません。

 ただこの文章が【 1969年7月に第1刷発行 】の本からの引用だとしたら、どう思われますか?

 上記の文は、わたしが生まれていない年に発行された本で 梅棹忠夫著『知的生産の技術』の、「はじめに」の出だしです。

 …この本が警鐘を鳴らした1969年から43年、学校現場はいかに、分かっていても変わらないものなんだ、と改めて実感する次第です!

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2016.01.01

2016年の目標~昨年の「道半ば」を取り戻して~

 2016年もよろしくお願いしますm(_ _)m
 すっかりと寝正月でしたcoldsweats01
 少し家事を手伝い、お風呂に入り、出していなかった相手から来た年賀状に対応し…

 この記事を書き終わったら、徐々に仕事を始めなくてはならない年末年始ですdespair

 毎年恒例で、今年の目標を書くのですが、昨日(=昨年末)の振り返りの際、「目標が短ければ振り返りも短時間で楽!と思いましたので、今年もその方向でhappy01

 しかも、昨日(=昨年末)の振り返りに、「持ち越し」が幾つもありましたので、今年の目標はそれをメインに、「道半ば」の回収を!

【大目標】
整理と選択によって、スマートに!

(「スマート」の2つの意味である「賢さ」と「手際良さ」の両方を追求

《具体的に…》

・整理
身の回りの物
 とにもかくにも、スペースを確保したい。
 管理すべき物が少ない方が精神的に楽!
 断捨離しなくては…

・整理と選択
仕事
 来年度が終われば、一つ大きな仕事が終わるのですけど…
 全部に関わることは無理なんです(>_<)
 これのためには、スマートさ(賢さと手際良さ)が必要!

〔小目標~昨年の道半ばの完成…物理教育&ICT&ディベート教育〕

《具体的に…》

・物理教育&ICT

 『アクティブ・ラーニング』&『NAKO私塾オンライン』+α(自宅にネット環境がない生徒のフォロー)で、ある程度の生徒達に、個々にあった学習をシステマチックに進められるようにしたい。
 まずは上記の形を更に整えた上で、生徒の様子をよく見て、問題点を発見して改善し、一定の完成をみたい。

・ICT&ディベート教育

 只今東北地区で進めているプレパの部分の支援を形にして、まずは東北地区の底上げ&新規参加を促したい。
 ディベートの準備段階で行き詰まる点が幾つか見えてきたので、そのハードルを超えるための教材を配布できるようにしたい。
|2つは考えていて、「(哲学的ですが)『価値』について考える教材」と、
|「似て非なる議論について(+ディベートで出くわす誤謬)考える教材」は
| 作成してみたいです。
 ネット経由の音声ディベートが、比較的簡単にできる時代が来ています!ネットを用いた音声でのディベートの試合のみならず、ディベートの遠隔指導もできるようにしてみたい。

… … …

 上記2つをするだけでも量的にも十分な仕事だと思っているのです(^-^ゞ
 確かに昨年、新たな視点に気付くため、多くの方との情報交換で、飲み会に出かけた回数も増えました。今年も結構ありそうな予感…

 ですが、出来るだけスマートに事を進めて、ライフ・ワーク・バランスを、幾らかでも整えたい(自宅で過ごす時間をもう少し増やし、更にゆとりをもって過ごしたい)と思っています。

 繰り返しますが、2016年もどうぞよろしくお願いしますm(_ _)m

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2015.12.31

「道半ば」な2015年を振り返って

 毎年恒例(去年(2014年)は コチラ )の、紅白を見ながら1年を振り返ってBlog記事を作成するお時間です!

 なお只今、新しいPCで作成中です!

Img_20151231_221024_2今回もPanasonichappy01

 今までのPCがWindows10未対応で、かつバッテリーが消耗しており・・・どうせお金をかけるなら仕事がバリバリできるPanasonicのハイエンドマシンを…と、妻にお許し頂いて買いました!(妻に最敬礼m(_ _)m)

|本体の色がブラックなのがやや残念bearing

 ということで、今年正月の目標を コチラ で確認します。

|【大目標】
| これから1年間、上手に仕事をして、来年の正月は時間的・精神的に
|ゆとりをがある状態にする!

 単純に、高3の受験クラスの担任から高2の担任になったことで、今年の正月は少し気が楽ですcoldsweats01

 でも、理想通りの負担軽減ではない、と、妻が申しておりますcoldsweats01

 確かに、もう少し、仕事も身の回りも、スッキリさせたかったなぁ。

|【小目標~物理教育にICTをトッピング&ディベート教育】
|・録りためした物理の動画を活用することに加えて、アナログ的なアプローチも
加味して、生徒達が「分かる!」教育アプローチを編み出す
||上手く行っても行かなくても、結果を報告する。

 まだ理想的ではないのですが、下記のように報告できましたhappy01
『NAKO私塾』とは、中等教育における“低価格ICT活用型適応学習システム”

 もう少し改善の余地があることを自覚していますので、2016年に改善します!

|・ディベートの教育的実践に取り組む
||できれば、多くの皆さんのお役に立つように取りまとめる。

 これはようやく、具体的に動き出しました。
 しかしこれも完ぺきではありません。
 具体的となったアイディアを、皆さんのお役に立つようにまとめる作業を、2016年に実行に移します。

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「スクールカースト」の思索2:「いじめはどこにでもある&なくせない」と言っていいのか?

『「いじめはどこにでもある=いじめはなくせない」と言うときの「いじめ」が指し示すもの、その全てが、いじめと呼べるものなのか?』

「どこにでもある」かつ「なくせない」、というものは、いじめとは呼べないだろう!
(皆さんの目の前に複数人の人がいたら、そこで必ずいじめが起こっている、という高い確率で存在するレベルでなければ「どこにでもあってなくせない」と表現できるものではない(=どこにでもあるというわけではない))

…と、約30年前の中学、高校、大学の頃と、素朴に思っていました!

ですが、日常で不快を感じる何かは、どこにでもあります!

その何かが、別なきっかけで「いじめ」と呼ばれる、酷い行為になるのでは?

-----

 この僕の中での仮説が、「やっぱりか!」と確信する記述がありました。

(『教室内(スクール)カースト』 p.50-51)
「「いじめ」の歴史は決して古くはありません。少なくとも日本で、「いじめ」という言葉が普及し、社会問題となったのは、1980年代半ばごろの話です。
 具体的には1986年。「このままじゃ生き地獄になっちゃうよ」という遺書を残して男子中学生が自殺した、東京都中野富士見中学校の「葬式ごっこ事件」がきっかけだったと言われています。
 (中略)
 このころのに行われた初期の研究の幾つかを見てみると、いじめる子どもはどういう子どもで、いじめられているこどもはどういう子どもなのか、つまり「加害者」と「被害者」の特徴を明らかにしようとした類(たぐい)の研究が大半を占めていることがわかります。
 (中略)
 じつは、これらの研究が明らかにしたのは、「加害者」や「被害者」の特徴は、いまいちよくわからないということでした。」

 研究が次の段階に移ると、「被害者」「加害者」のみならず、周囲を含めた4層構造に着目され、またこの考え方は、現場にも降りてきていました(=私も現場で聞きました)。

 ですが私が教員として就職し、現場で見てきたのは、「いじめ」もあったものの、数が圧倒的に多いのは「いじめ」とは呼べない、些細ないざこざでした。

 しかしその「些細」と表現してしまったものの中に、当事者が耐え難いと感じてしまうケースはゼロではないだろうと考え続けてきました。

 このもやっとした感覚を、この本のあとがきで本田先生が言葉にしてくださりました。

(『教室内(スクール)カースト』 解説(p.294-295))
「著者は第2章で、「いじめ」の研究を振り返ったうえで、「いじり」や「悪ふざけ」などの「いじめチックなこと」が、おとなたちからは「ささいなこと」のように見えても、「なぜだかわからないけれど弱い立場にいる児童生徒」にとって「教室はおりのようなものになりえる」からには、それが「いじめ」かどうかにかかわりなく、なんとなく下に見られているような感覚」が生み出されているメカニズムこそを、データに基づいて正面から検証する必要がある、と宣言しています
 これはとても重要な観点だと思います。
 そう考える理由を、私なりの言葉で言い換えるならば、まず、生徒の間に発生している「上か下か」という関係性は、仮にそこに「上から下へ」のあからさまな悪意や侮蔑が強くない場合でさえも、「下」として扱われること自体が、その当事者にとってはとても苦しい状態であることが多いと思われるからです。」

 その悪意や侮蔑が強くない、些細なことの大きな1つに、「スクールカースト」があると感じます。
 なぜならばスクールカーストは、人間(日本人?)社会の中で敷衍的に容易に形成されてしまうからです。それが生じるメカニズムは、前回の記事「「スクールカースト」の思索:1」で指摘した

 ・値踏み
 ・同質の人間集団での上下

そして「本」は、私の仮説と一致した、大事なことを書いています。

(『教室内(スクール)カースト』 p.41)
「だけど僕は、厳密に言うと、「いじめ」と「スクールカースト」があることとは、完全に同じことではないと思っています。もっと言うと、「いじめ」だと認識される問題の多くは、「スクールカースト」があることによる弊害の一部なのではないかと思っています。」

|多分、多くの人が見逃す(>_<)

 つまり、どこにでもある(正確に言うと、生じている&見かける可能性がかなり高い)のは「スクールカースト」で、これは、生じるメカニズムが人間の本性であるかぎり、なくせない、でしょう。
 しかしながら、弊害として派生する「いじめ」は、食い止めることができるはずなのです!

 そしてこの「本」は、「スクールカースト」と「いじめ」の分離について言及しています。

(『教室内(スクール)カースト』)
「(p.40)「いじめ」の仕組みを説明するうえで、「スクールカースト」がその要因として登場することは、たびたびありましたが、「いじめ」の文脈をはずした状況で「スクールカースト」が検証されることは、ほとんどありませんでした。

「(p.64,65)先に説明したように、「いじり」や「悪ふざけ」などの、いわば「いじめチックなこと」は、おとなたちから「ささいなこと」だと判断されてしまう可能性がかなりあります。その「ささいなこと」が「いじめ」であるかどうかは、その行為自体の内容の問題ではなく、「認識」の問題であるようです。
 そうであれば、これ以降、同様の問題を引き起こさないためには、「いじめ」と認識されるかどうかはひとまず置いておいて、なぜだかよくわからないけど強い立場にいる児童生徒と、なぜだかわからないけど弱い立場にいる児童生徒のような関係性が、どうして同学年の児童生徒間で生じているのかを、今いちど、検証しなおす必要があると考えられます。
 これから「いじめチックなこと」が、「いじめ」であるかどかはもはや関係ありません。「いじめ」の根本的な解決、そして解明を目指すには、「いじめ」と認識されるかされないかは関係なく、行為それ自体を対象として検証すべきだと思うのです。
 特に、同学年の児童生徒間ですしたことが普通に起こっているならば、なおさらです。」

 私は、上述される検証の前に、「スクールカースト」と「いじめ」の分離されたならば、下記の場合分けを考えるのが筋でしょう。

  • スクールカースト有り×いじめ有り(←これが一番ひどい事例が生じそう)
     
  • スクールカースト有り×いじめ無し
     
  • スクールカースト無し×いじめ有り
     
  • スクールカースト無し×いじめ無し(←ゼロではないと予想)

【小結論】
 教科書通りのいじめは、現在ではレア!
(『教室内(スクール)カースト』p.65)
「教育現場に入ると、自他ともにはっきりと認識できる、教科書通りの「いじめ」は、今やかなりのレアケースになっているような気がします。」

 そして、時代が進み、現在では「コミュニケーション操作型のいじめ」と移っていまして、その理解と対応が必要となっていると思われます。

(『教室内(スクール)カースト』p.55-56)
「社会学者の内藤朝雄さんは「いじめ」を「暴力系のいじめ」と「コミュニケーション操作系のいじめ」に分類しています(内藤朝雄『いじめの構造』講談社・2009年)。
 「暴力系のいじめ」というのは、文字通り「殴る蹴る」や「金銭を脅し取る」などの身体的な攻撃を与えるような「いじめ」です。一方、「コミュニケーション操作性のいじめ」というのは、いわば「シカト」や「悪い噂を流布させる」といった、「被害者」の学校生活でのコミュニケーションのあり方を制限させるような「いじめ」です。
 (中略)
 深刻なのは、やはり日本の学校で蔓延しているとされる、「コミュニケーション操作系のいじめ」であると考えるのが妥当でしょう。
 先に述べたように、教室という「閉じた空間」で大部分の時間を過ごさなければならない日本の学校は、効率的に知識を伝達しやすいという利点がある一方で、コミュニケーション操作系」を生み出しやすいという副作用を持っているように思えます。」

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 いじめの防止、というより、いじめの予防のことを考えた「いじめの起きにくい環境づくり」についてのヒントこそ、上記のことを認識することからではないかと考えます。

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2015.12.29

「たましいを育てる」=「自分の脳ミソで考える」子どもを育てる

 Eテレ「こころの時代~宗教・人生~」に、『やまびこ学校』で有名な無着成恭 先生が出演されてました。ビデオに録画していたものを、先ほどようやく観ました。

 番組の中で仏教の本からの引用で「師は必ず弟子の問うを待って発話するなり」という言葉がありました。
 無着成恭 氏から「そうでなければ我田引水になってしまう」というご発言がありました。

 これは即ち、まずは学び手が考えるのが先で、学び手が必要性を感じて問いかけがあってから(=その後から)伝える(教える)ということで、教育は今で言う「アクティブ・ラーニング」であるべしということをおっしゃれているのです!

 学校は、「教わるー教える」のあるべき姿の教えを、どこかで立ち消えにしてしまったのですね!

 それについての解説もありました!!

 原因は『時代のうねり』と言っていました。
 「戦後が終わった」という時代に、農業国家から産業国家に移行します。国民全体が「所得倍増」を目指します
 この「高度経済成長」の時代に、受験競争の激化、知識の詰め込み、点数至上主義と、学校が変貌します。

すると、「(知識を)つめ込まなくてはならない」→「質問を受け付ける時間がない」⇒「質問をさせないシステム」を構築されてしまう、となります。

 要は昨今言われるワンウェイ授業の確立ですね。
 一昨日、書いた記事のとおりです。

 その中で、「やわらかい魂をもった子どもが振り落とされる」ことが起こります。無着成恭 氏はそれを「日本の損失」と言ってました。「『なぜ落ちこぼさせられたのか』とも考える余裕もなく、落ちこぼれる」とう現象が起きます。

 本当は落ちこぼれる必要のない子どもの仏性を認めないから、暴力沙汰の現象が起こる、とも申しておりました。

 丁度私が、子どもころに大きな問題となった現象(校内暴力やツッパリブームなど)ですね。

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 教員は『たましいの技師』であるべきと、無着成恭 氏はいいます。
 「たましいを育てる」=「自分の脳ミソで考える」子どもを育てるのが、教員の本来の務めだと申しておりました。

 全く「アクティブ・ラーニング」そのものです!!

 結局、高度経済成長からの転換期に、社会の影響を受けるのがワンテンポ遅い教育現場で働く教育関係者が、前進しつつも上手にコーナーを曲がる必要がある、ということだと思われます。

 社会が転換期を迎えているのですから、「変わらなきゃ」と痛感する先生方も徐々に増えて来て、教育全体も変わっていく方向に流れを作らねば、と思う次第です。

 ということで、一昨日書いた記事での展望が裏付けられた形でしたcoldsweats01

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2015.12.27

アクティブ・ラーニングにシフトしない要因を踏まえての展望

 11月に、Facebook『反転授業の研究』グループ主催のオンライン勉強会に、岩手県立大野高等学校校長の下町壽男先生が登壇され、お話を伺いました。
 その中の、ほんの短い説明に、私ははっとさせられました。

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授業における旧パラダイムを良しと考える人達

 学校の教員は、自分で自分を磨くために、身銭を切ることをしない=自己研鑚がなく、世界や世の中の変化に対応するような教育ができない。

 学校という閉じた世界で、受験のための知識を、上から目線で、データ化して、量をこなしてやっていく…そいうこと(そこから生まれた進学等の実績)に価値を見出している
-----

 パラダイムとは「ある時代のものの見方・考え方を支配する認識の枠組み」とあります。
まさに「(授業、及び学校の目的が)進学等の実績に価値を見出す枠組み」にガッチリと心奪われている状態が、日本の学校教育における旧パラダイムだと思われます。

 何故、旧パラダイムの授業・学校から抜け出せないのか?
 2つの強力な支持層があるからだと思われます。

(1)入学生の保護者、及び(進学希望の)児童・生徒たち
 学校選びに、その学校の進学率&進学先、または就職率&就職先を重視する人は、過半数を超えていると予想されます。

(2)学校側や教員側が「やるべきことをやりました」と示しやすい。
 旧パラダイムの授業をしていれば、「~~を教えました」「~~に時間をかけました」と、証拠を示しやすいですよね。
 すると、本来伸ばしたい資質が仮に伸びていなくても、責任を問われにくい構造になっていると思われます。

 それにプラスして、実際「量をこなしてやっていく」ことは、着実な成果に繋がりやすい道筋として確立しているのです。
 結局、試行錯誤を繰り返し、失敗から学んで、多くの経験からイメージ作りに成功し、必要な理解にたどり着く、という道筋を、教員や保護者は好んで選ばせ、児童・生徒も、より多くこなすことが大切だ、と思っているはずです。

 すると、例えば長期の休みは宿題だらけ、とかなっている学校さんは多くあるはず。
 ゆとりがない生徒達は、答えを書き写して「叱られなければ御の字」という取り組みのスタイルに陥ります。すると、叱られないことを優先して、問題を解くためのプロセスは、児童・生徒にとっては大事ではなくなります。答えがなければ取り組めない児童・生徒の誕生です。
 これが、企業にとって好ましくない結果、のはずです。(なぜ企業か、は後ほど)

 一方で、「量をこなさせる」ことが大事だと思うと、教員側も、より効率よく量をこなさせる方向で考えます。
 ですが、取り組ませた課題をチェックし、一人ひとりに適切なフィードバックを返さないと、効果は上がりません
 よって、真っ当な教育をしようと考える真面目な教員ほど、労働過剰に苦しむことになります。
 (深刻なのは、教員側が上手に手を抜く&児童・生徒側は答えを書き写すだけ⇒結局、課題はクリア&児童・生徒は何も学べていない、けど進級する、というパターンを生み出していることでしょう)

-----

 まとめると
 「(授業、及び学校の目的が)進学等の実績に価値を見出す枠組み」となっていて、
 その手段が「量をこなしてやっていく」ことになっていて、
 自らの首を縛るように「教員の労働過剰」を生み出し
 それを避けるために、一部、評価等に手を抜く教員の存在が、プロセスの理解に手を抜く《雑な学び》をする児童・生徒を生み出し
 企業側が「そんな人材は必要ない」と教育側を批判するも、
 教員側は「企業側の論理で教育しているのではない&結局は進学等の実績が…」

旧パラダイムの教育を続ける方向にシフトしている現状が続くのだと思います。

-----

 この現状を踏まえなければ、「アクティブ・ラーニング」は普及しないと思っています。

 つまり
 「進学も大事だという考えは否定しない」
 「一定量の学びは必要」
 「労働過剰は問題」
 であっても、【授業における学びのプロセスは変革したほうが望ましい】

という観点で、児童・生徒に、プロセスの理解(「そうなるのは、なぜ?」と考える)に目が向くような授業設計をしましょう、というアプローチが、「アクティブ・ラーニング」の普及に必要なのだと思います。

 ワンウェイの授業では、ただ自分の座席で黒板を書き写し、授業のじゃまにならないように静かに先生の話を聞いているだけで、プロセスの理解をせずにやり過ごす児童・制度を生み出しがち、ということでしょう。旧パラダイムに縛られがちなら、尚更なのです。

 一方で「なぜ?」を大切にする授業づくりを続けてきた先生方も多いはずです。そういった先生方にとっては「なぜ今更『アクティブ・ラーニング』なのか?」と思うはずです。
 そういう先生の取り組みは今後も継続して頂ければ良いと思うのですが、「(1)旧パラダイムに縛られている先生方も、それ以上に多い」、「(2)「なぜ?」を大切にする授業を行う先生が一定数いたとしても、その先生が受け持たないどこかの学年において旧パラダイムで学び、旧パラダイムに染まった状態の卒業生の方が、総人数としては多い」ということだと思われます。

-----

 ですから、「アクティブ・ラーニング」の取り組みの今後を考えたときには、先生方の考え方を尊重しつつ、授業形態のマイナーチェンジを提案し続け、出来るだけ普及が進むことが大事なはずです。

 そして普及のためにはどうしても「考え方を変えたら成果が出ました」ではなく、「成果が出たので、考え方を改めました」】が必要、つまり、実際にやってもらって、成果を実感してもらって、合理的に「アクティブ・ラーニング」へとシフトしてもらう必要があると思っております。

 教員側にも「アクティブ・ラーニング」を実践しての【成功体験】を積んでもらう場が、各地にできれば、と思います。

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2015.12.13

「科学的に考える」とは?

 本校の研修旅行(理科コース)の3日目、午後のAGプログラム(グループ別研修)にてJT生命誌研究館を訪れ、西川伸一先生の講話で、生徒達は「科学的であるとはどういうことか?」と考えたことがあるか?との問いが与えられ、

「科学的」=「民主的」(≠権威的

であるという内容に、改めて強く心に留めた次第です。

 遠い昔の教会、現在では政府(政治家やお役人さん)、そして先生が言ったから正しい、というのではなく

「みんなと同じ結果を得るように。
 ×作り話
 ×捏造 」

という視点は大事です。

 最近は、旧来の黒板とチョークを用いた、教員側のワンウェイの授業が見直され、アクティブ・ラーニング型(AL型)授業の導入が、特に高校の教育現場では言われまていますが、私の受け持つ高校物理&中学理科は、誰が説明しようが、調べ学習をしようが、実験しようが、同じ結果を得るように「科学的に」考えることが大事です。

 ですが、必ずしもピッタリ同じにはならないのです(^^;

 そして、教科書や先生から教わる生徒達は、学校という場で長らく理科の学習を積んでいる中で、教員側の期待とは裏腹に、上記のような「科学的に」考えることに慣れていません

 講話の後で質問が出なかったので、私から「科学的に考えられるようになるコツは、どのようなものでしょうか?」と質問しました。
 すると西川先生は、

-----
(1)疑問に思う
(2)それはなぜか?と考える
(3)他人はどう考えているのか?と調べる。

 (他人の意見も、昔ど比べればインターネットで検索が可能、かつ容易
-----

と教えてくださりました。

 (1)は、科学の基本だと思いますが、(2)→(3)の順番を守ることが大事ですよね!
 (2)は、疲れる作業ですので、飛ばして(3)に行きたくなるところです。また、(2)の答えが誤っている可能性があるので、仮説を表明するのが恥ずかしい場合もあるでしょう。
 ですが、疲れる見込みを乗り越えて考えるという行為に至ることが大事です。また、そこで考えたことのすべてを表明しなくても、例えばノートやメモ用紙等に書き留めていて、後で捨てるくらいでもいいのです。「本当は最初から合っていました」という方が、捏造で、より好ましくないですから!

 「失敗は成功のもと」だと少しゆとりのある心構えで、(2)を先に、その後に(3)をチェック、という流れを、生徒達には身に付けてもらいたいです。

 その最終形として「ゴールへ(論理的に)(たどりつく根拠を、誰もが客観的に確認できる」状態であるか否かをチェックできるような姿勢を養い、習得してもらいたいです。

|いわゆる『クリティカル・シンキング』がそれに当たるのでしょうかconfident

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2015.11.29

「スクールカースト」の思索:1「読み比べ」

 私が大学生の頃より深く考えていて、更に教員となって20年、度々考えていたある仮説があるのですが、その仮説について思索を深めるため、「スクールカースト」について理解を深めようと、以下の3冊を読み比べました。

◎『教室内(スクール)カースト』鈴木 翔 著(2012年)
◎『スクールカーストの正体~キレイゴト抜きのいじめ対応~』堀 裕嗣 著(2015年)
◯『「プロ教師」の流儀 キレイゴトぬきの教育入門』諏訪哲二 著(2014年)

【定義】
「同学年の児童や生徒の間で共有されている「地位の差」を、本書では「スクールカースト」と呼びます。」(『教室内(スクール)カースト』はじめに(p.6))

むしろ『教室内(スクール)カースト』のそで(=表紙の裏側)に書いてある以下の記述が更に端的。
「スクールカーストとは、主に中学・高校のクラス内で発生するヒエラルキーのことで、小学校からその萌芽はみられる。同学年の子どもたちが、集団の中で、お互いがお互いを値踏みし、ランク付けしていることは以前から指摘されており、いじめや不登校の原因となることも言われていた。」

【定義の補足】
※『スクールカーストの正体~キレイゴト抜きのいじめ対応~』をもって、「スクールカースト」を補足的に捉える

(序章(p.10))「同学年集団、つまり同い年の人間が集まる三十人~四十人くらいの中規模な集団において、人としてどちらが上かどちらが下かと測る、そんなイメージで捉えると理解しやすい。」
(続けて((p.10)「職員室にも厳然とした職員室カーストがある」、(p.15)「それはちょうど、子どもがある一定の年齢になって公園デビューを果たした若いママさんが、ママカーストに苦しむのにちかいかもしれない。」と、別な集団の〈カースト〉に言及)

【「スクールカースト」の、用語としての側面】

※『教室内(スクール)カースト』より・学術用語ではなく、公文書の中で登場することはない。(p.28)
・「スクールカースト」という言葉を生み出した人物は、『AREA』(2007年11月19日号)がインタビューに成功した「システムエンジニアのマサオさん(29)」(p.33)
|この記事の2年ほど前にネットで登録、とあるので、2005年のことと推測
・森口 朗 氏が『いじめの構造』(新潮社・2007年)に「近年若者たちの間で定着しつつある言葉」として掲載。(p.28,29)

※『教室内(スクール)カースト』の著者の鈴木 翔 氏は「うまい言葉をつくるものだなあとすごく感心」し(p.28)、『スクールカーストの正体~キレイゴト抜きのいじめ対応~』の著者の堀 裕嗣 先生は「初めて聞いた時に、生徒たちを取り巻く教室内の階層意識を的確に表現する語として膝を打った記憶がある。そのくらい生徒たちをとりまく状況を表すのにぴったりの言葉だった(p.8)」そうだ。

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 『教室内(スクール)カースト』と『スクールカーストの正体』と読み比べて感じた点は、筆者の立ち位置の違いです。

|『「プロ教師」の流儀 キレイゴトぬきの教育入門』は、『スクールカーストの正体』
|で引用されていた内容を確認するために読みました。

『スクールカーストの正体』
・ベテラン教師の著者が、教師の視点から書いている
 それは「東北のある大都市の隣町で、大きないじめ自殺が起きた」ことが、本の執筆の動機になっているからだと思われます。しかも、堀先生や森口先生が過去(2010年)に議論した内容が、教育現場に浸透していない故に、解決すべき問題が解決しないことを由々しき問題だと感じられているからだと思われます。

・〈スクールカースト〉を、実際に起きている現状として分析し、それを踏まえた行動・対処を求めている
 〈スクールカースト〉の上下を生み出す「コミュニケーション能力」の具体を〈自己主張力〉〈共感力〉〈同調力〉とし、それぞれの有る無し(2×2×2=8通り)のタイプが、人間にも、教員にも存在すること、そのことに派生することを理解することから、だと思われます。
 「教師たちよ、お前たちはもう、この言葉を無視できないぞ」(p.9)の表現が印象的です。

『教室内(スクール)カースト』
・「【大学1年生を対象にしたインタビュー調査】「これまでの学校生活の人間関係に関する回顧的調査」」を元にした、生々しい証言
 これは、当事者でなければ実感できない部分が、言葉として表に出ています。

・第2章の「先行研究の検討」によって、なぜ「スクールカースト」に着目すべきか、の流れが分かる
 僕の一番の関心は、ここにありました!

▼【大学1年生を対象にしたインタビュー調査】が10名と少ない上に、【現役教員を対象としたインタビュー調査】の4人の回答が、教師集団の傾向を表せるとは思えない。
 この本の書評をネットで調べると、この点での批判が多いです。
 正直、これは批判されても仕方がないかと。僕でさえ「確かにこういう教師もいるけどねぇ…」と、ななめ読みになりました。

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 本としての質は『スクールカーストの正体』の方に軍配が上がり、現場での指導に示唆を与える効果も大きいだろうと思います。

 ですが私が注視したのは、『教室内(スクール)カースト』側があぶり出した「スクールカーストが生まれるメカニズム」です。
 日常生活のちょっとしたことが、「カースト」と呼ばれるような上下を生み出していると思われます。

・「人間が出会うと、そこには必ず『値踏み』というものが発動する」(p.3 豊島ミホ『底辺女子校生』を引用して)
・「スクールカースト」の認識は発達段階で変化する。(p.84)
・(小学校)(高学年くらいになると)「男子の女子に対する態度が変わってくる」「◯◯ちゃんのグループが◯◯くんを誘ったら絶対ついていくのに、ウチら下のグループが誘ったときは、返事が半々だ」(p.93.94)
・(中学か高校)「運動(が)苦手な子たちっているじゃないですか?そういう子たち(上のグループに)「ちゃんとやってくれない?」とか言われたり(してた)。やりたくてもできないことかもいるじゃないですか?

 こうした日常で見られるちょっとしたことが、大きな差を生むケースって、よくある話だと思うのです。
 『教室内(スクール)カースト』では、だからといって上手にやり過ごす子の話、やはり辛かったと深刻に受け止める話、その上下関係がリセットされずに次の学年や新しいクラスでも引き継がれる話、時によって上下関係が入れ替わった話、など、体験者の話として語られているのが大きいと思われます。

 今回は、2冊+1冊を読み比べて、より俯瞰的に、理解が深まりました。
 これを踏まえて、私の思索が進むのですが、次回でm(_ _)m

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2015.08.31

自分達で解決しようとする人間を、翼の陰に

 本校では、2千人ちょっと入る礼拝堂で、毎日授業の前に、中高約1600人が一堂に集って、礼拝を守ります男子校で1600名ほどの男子が集まる様子は、初めて見る方は驚くかもしれません。
 クリスチャンである私は、年に数度、担当として、することがあります。
 聖書の箇所は通読なので、子どもの頃からの日曜礼拝等で何度も聞いたことがあって、生徒に話しやすい箇所のこともあれば、「これは何を話せばいいんだ?」と悩む難解な箇所もあります。

 今回も、やや難解な箇所だと思い、色々調べ、当番の日の未明に原稿を作成したのですが、夏休み中の各部の大活躍で、表彰するのに時間がかかる関係で、お話を省略してお祈りだけになりました。
 ということで、折角頑張って作成したのにボツとなった原稿をUPすることにしました(^-^ゞ

=====
マタイによる福音書23章37節~24章2節

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」
イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

ーーーーー

 「偽り」という漢字は、「にんべん」に「為す」と書きます。覚え方ですが、「人のためと書いて『偽り』」と、なにか人生を表すような意味の深い覚え方ですよね。

 この「偽り」という漢字を用いて表す「偽善者」という言葉の意味として、「いい事言うくせに裏で何を考えているのかわからない、腹黒い人」というイメージを持つかもしれませんが、今日の聖書の箇所から、この「偽善」についてのイメージが伝わればと思います。

 結論を先に言うと、当時の律法学者やファリサイ派がいくらいい事を言っていたとしても、結局、人を救うのは、神だ、ということなのです。
 人の作る社会ではどうしても、救われない人が生まれるので、今日の聖書の最初で、「めん鳥がひなを羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度も集めようとした」と書いてあるように、律法学者やファリサイ派を含めたすべての人を救おうとしているのにも関わらず、あなた達は自分で何とか出来ると思っているでしょ?というのが、ここで言う「偽善」です。
 また、後半の24章側では、弟子たちがイエスに神殿の建物の方を指さした、とありますが、これは、イエスの言葉の厳しさに、イエスのもとを離れて律法学者のいる神殿に戻っていった人達の様子を指さした、と言われています。

 かく言うキリスト教側もその昔、免罪符の大量発行をしてしまい、「救われる」ということはどういうことなのかが問われ、宗教改革が起こったことは、世界史を習った高校生なら、知っていることかと思います。

 21世紀を迎えて15年が過ぎ、今、日本の教育制度が改革されようとしています。
 例えば、センター試験に代わって、高校在学中に達成度テストという新しい試験を受ける、などが挙げられます。
 なぜ、改革されるのか、というと、改革するべき理由があるからで、高校でいうと例えば、トップの次の層の高校生たちがここ15年で、勉強する時間が半分になった、なのに少子化が進んでいるのに大学の入学枠は減らないので、勉強が足りないまま大学進学希望者はみんな大学へ行くようになった、これでは日本の将来はどうなるのか?、といったことがあります。
 更に、この混迷とする21世紀において、頭のいい人から勉強を教わることで頭が良くなれば、就職もできて上手くいきていける、とは限らない(*1)、という時代がやってきそうだ、という背景もあります。高度な情報化で、例えばネット販売が進化するなど、働く場が置き換わる可能性もあるのです。つまり、最初の偽善者の話で言った「あなた達は自分で何とか出来ると思っているでしょ?」が、通じない時代がやってきそうです。

 ではどうするべきか?
 勉強はできて当たり前(*2)で、その先の時代を生きるには、自分たち以外の人とも手を組み、知恵を出し合って、何が答えなのか分からない中で問題を改善するしかありません。集団的自衛権とか、誰と集団を組むのかわかりませが、その敵となる人達とも知恵を出し合って、1つしかない地球上でどうやって生きていくのかを考えるのです。

 本校は、宗教改革の改革した側の流れをくむキリスト教学校です。
 苦しい時代であっても別け隔てなく、翼の陰で守ってくださる神様の存在を知ることで、自分とは違う相手とも共に生きて、一人で生きる限界を、良い形で、乗り越えてください

… … …

お祈りします。
 天の父なる神様、御名を賛美します。
 あなたの守りのうちにあって、自分とは異なる多くの人と共に、より良く生きられるよう、答えのない時代を切り拓く知恵と、行動できる勇気を、与えてください。
 主の御名によって祈ります。 アーメン

  [頌栄(しょうえい)]

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